お水欲しいヒト手を挙げて!

もう哺乳瓶もミルクも卒業しているので、風呂上りに2号が飲むのは水である。
歯磨き用コップに水を入れて飲ませた後、いつものように布団に連れて行き、寝せようとするのだが、なぜか断固として寝ない。
すぐに布団から脱走して、絵本棚から絵本を出してきたり、読もうとするとまた脱走したりの繰り返しだ。

終いには1号の絵本を飼猫氏が読み終わって、灯りを消し、1号が寝たあとも同じなので
「2号!お前は一体ナニがしたいんだ?
 腹が減ってるのか?水が飲みたいのか?」
というと
「あう〜」
と言う。
む。

「水が欲しいヒト、手を上げて!」
はぃっ!
声はなくとも勢いよく手を挙げる。

そか。水が足りなかったか。それならそうと早く言えよ。
水を飲ませると、コトンと寝に入りました。


そういえば思い出します。やはり11ヶ月でミルクと哺乳瓶を、これは自分で勝手にやめた1号も、毎晩泣いて起きた後
「腹は減ってるか〜!? のどは渇いているか〜!?」
と訊き、ハィッと手を挙げた回答で
「のどが渇いているのかっ!では水か?…違うのかっ?牛乳かっ?」
ともう一度訊きなおし、飲ませるとことんと寝ていたこと…

? posted by Yumikoit at 10:54 pm commentComment [4] pingTrackBack [0]

 

アインシュタインの恋(下)

アインシュタインの恋(下)

デニス・オーヴゼバイ著・中島健訳

出版社 青土社
発売日 2003.05
価格  ¥ 2,520(¥ 2,400)
ISBN  4791760328
★★★★☆
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やっと読み終わりました。
懐かしい人物名がたくさん出てきて面白かったですが、やはりこの手の業界の本は、読むのに時間がかかってしまいます。じっくり読むためにはこちらの気持ちが落ち着いていないと読みにくい…(^_^;)

ミレヴァとは結局離婚。つまるところ、少数意見派の研究者同士の結婚ということでお互い分かり合えるはずだったのかもしれないのに、異民族同士の結婚は彼らにとって必要以上に障害となったのか。あるいは結婚当時から身内から反対されていた もうひとつの原因であった ミレヴァが抱える身体的ハンデや遺伝的な問題が、後半生にとってアインシュタインに重くのしかかり、それが従姉妹エルザに彼を向かわせる原因となったのか。

アインシュタインの前半生において、彼女の 彼の暗部を支えた 部分というのが、後になってアインシュタインにとって負担になってしまったというところなのだろうか。

従姉妹エリザとの恋も中途半端に終わってしまい。
浮名を流したといえば聞こえはいいけれど、結婚生活が幸せに行かないことは、子供との関係についても不幸せな経過をたどることが多く、そういう意味では結局のところ偏屈で不幸な人生だったのかもしれない。

相対性理論の公式は、私も学生時代に学んだが、量子力学に比べて非常にシンプルだ。宇宙項が確かに余計な?気もするが、ひとつの幾何学として完成されている。
…と思うのは、私が多体力学を非常に不得意としたからかもしれない。

? posted by Yumikoit at 05:54 pm pingTrackBack [0]

 

犠牲(サクリファイス)―わが息子・脳死の11日

犠牲〜わが息子・脳死の11日

柳田邦男著

出版社 文芸春秋
発売日 1999.06
価格  ¥ 540(¥ 514)
ISBN  4167240157
★★★★★
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息子が精神を病んで自殺した。すぐに救急車を呼んだが、脳死状態になり…生前の息子との会話、日記の数々、色々なことを思い返し、悩んだ末に臓器移植を決意する。

一人称(自分)の死、二人称(家族、友人、知人…)の死、三人称(それ以外の人々)の死…。
確かに、臓器移植というシステム、制度を考えるとき、それは三人称の死として定義し、その倫理その他について考えていく。しかしそれを利用する側(特に提供する側)にとってはそれは二人称の死だ。
その間にある感情、そこに到達する過程は、他者の死や「脳死」に対する定義などに周りから決められてしまうものではない。通常の死…心臓死である場合でさえ、家族にとっては簡単に受け入れられるものではない…まして、まだ身体が温かく、機械に頼っているとはいえ呼吸さえしている場合には。

以前、新井素子さんの「近頃、気になりません?」というエッセイ集でも脳死について取り上げられていた。人間も生き物の連鎖の中にいる という考え方を持ち、作品中でも「人間が料理される」というシーンがミョ〜に多いこの作者。
彼女にしてみても
「だって、死んじゃって火葬になっちゃったら私の体全部なくなっちゃうんだよ!臓器移植とか何とか、そういう形でも役に立つなら!」
と臓器移植を肯定しつつ、その一方で
「でもだんなの身体は絶対にだめっ。だってまだ生きてるんだよっ。身体があったかいんだよっ。思いっきりひっぱたいて 起きろよっこらって 無理やりにでもなんでも生の側に呼び戻したい」
…と、文章そのものは思い出して書いているのでかなり違うと思うが、身近な家族の死としての脳死は想像するだけで受け入れにくいものだと考えられる。

「死」とは違う方向でのテーマになるが、最近、向井亜紀さんが海外で代理母によって子供を得た。
不妊に対しても、他者からは簡単に「神の領域を侵す」として特に人工授精に関しては否定的な意見を得ることが多いが、三人称にて(或いは自分がそういう対象として生まれることになる二人称として)、論議されることについては そういう理由でよい。

しかし、実際に自分に子供が生まれない立場からの論議であったとしたら。
医学的に既にある程度確立されて、実現可能な方法が目の前に示されているのに、それを選択するのは個人の自由である。その感情はあくまでも当事者としての感情であって、第三者から一方的に与えられるものではないのだ。

心臓を移植すれば治る、と海外におもむく方々のニュースは美談のように報じられるのに、子供が欲しくていく場合にはなぜ非難されるのだろう、といったことを向井亜紀さんがどこかに書いておられたが、私も同じように思うのである。

? posted by Yumikoit at 05:52 pm pingTrackBack [0]

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