犠牲(サクリファイス)―わが息子・脳死の11日

犠牲〜わが息子・脳死の11日

柳田邦男著

出版社 文芸春秋
発売日 1999.06
価格  ¥ 540(¥ 514)
ISBN  4167240157
★★★★★
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息子が精神を病んで自殺した。すぐに救急車を呼んだが、脳死状態になり…生前の息子との会話、日記の数々、色々なことを思い返し、悩んだ末に臓器移植を決意する。

一人称(自分)の死、二人称(家族、友人、知人…)の死、三人称(それ以外の人々)の死…。
確かに、臓器移植というシステム、制度を考えるとき、それは三人称の死として定義し、その倫理その他について考えていく。しかしそれを利用する側(特に提供する側)にとってはそれは二人称の死だ。
その間にある感情、そこに到達する過程は、他者の死や「脳死」に対する定義などに周りから決められてしまうものではない。通常の死…心臓死である場合でさえ、家族にとっては簡単に受け入れられるものではない…まして、まだ身体が温かく、機械に頼っているとはいえ呼吸さえしている場合には。

以前、新井素子さんの「近頃、気になりません?」というエッセイ集でも脳死について取り上げられていた。人間も生き物の連鎖の中にいる という考え方を持ち、作品中でも「人間が料理される」というシーンがミョ〜に多いこの作者。
彼女にしてみても
「だって、死んじゃって火葬になっちゃったら私の体全部なくなっちゃうんだよ!臓器移植とか何とか、そういう形でも役に立つなら!」
と臓器移植を肯定しつつ、その一方で
「でもだんなの身体は絶対にだめっ。だってまだ生きてるんだよっ。身体があったかいんだよっ。思いっきりひっぱたいて 起きろよっこらって 無理やりにでもなんでも生の側に呼び戻したい」
…と、文章そのものは思い出して書いているのでかなり違うと思うが、身近な家族の死としての脳死は想像するだけで受け入れにくいものだと考えられる。

「死」とは違う方向でのテーマになるが、最近、向井亜紀さんが海外で代理母によって子供を得た。
不妊に対しても、他者からは簡単に「神の領域を侵す」として特に人工授精に関しては否定的な意見を得ることが多いが、三人称にて(或いは自分がそういう対象として生まれることになる二人称として)、論議されることについては そういう理由でよい。

しかし、実際に自分に子供が生まれない立場からの論議であったとしたら。
医学的に既にある程度確立されて、実現可能な方法が目の前に示されているのに、それを選択するのは個人の自由である。その感情はあくまでも当事者としての感情であって、第三者から一方的に与えられるものではないのだ。

心臓を移植すれば治る、と海外におもむく方々のニュースは美談のように報じられるのに、子供が欲しくていく場合にはなぜ非難されるのだろう、といったことを向井亜紀さんがどこかに書いておられたが、私も同じように思うのである。

? posted by Yumikoit at 05:52 pm pingTrackBack [0]

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